惑惑の記

何かの成れの果てが

つれづれ

Sに期待はしないとしたら、モチベーションを崩しつつある。かと言って、いきなりやめてしまうのは一種のモラハラか。

Sは僕に対して義務を負えないし、だとすると僕が負う理由もなく…ただひたすら僕が捧げ続けるしか形にならない?

Sを求めること一点で自分の行動を正当化してきたけど、Sを求めることの対価が何か分からなくなると、自分の行動の正当性が破綻しそうになっている。もういいか、となると、自己肯定が瓦解しそうで、Sに会うことを続けようとするが、でもその目的がわからなくなっていてモチベーション迷子。自分の行動がSにすら求められているとは思えず、自分だけが自分を肯定している状態だと、その正当性にまるで自信が持てないということなのか。仮にSが僕に求めるとするとそれは対価を前提としているので、そもそも成立しないか。でもSの求めるものが金銭的なものであれば、僕は納得か?しかしそれは僕が金銭を支払うことによる対価として相応のものなんだろうか?こう考えるとまるで宗教だな。

Sが僕に対して持つ気持ちが、一番ありそうな感謝だけだと考えてみよう。だからなんだ?

進んで死にたいとは思わないが、否応無い力で今の世界が断ち切られないかしら。他人任せだけど。どうしようもなければそういったものだと受け入れられるし、諦めもつく。自分は悪くないと思いたいだけなのか?賽の河原で石を積み続けることなんて出来ないのか?

自分がしなかったことに対して後悔をしたくない、という気持ち?したことに対しては仕方がないと思えるから許容?

Sが最終的には僕と契りを結んでくれると信じて疑わなければ、今の僕に何の疑いをもたないということになるが、そうでないということは、僕は信じていないからということになる。契らないとしたときに、今の自分を肯定できないから、僕はウジウジと悩んでいるんだろう。Sに問いかけたところで、僕の悩みは晴れないだろう。絶対なんて言えないだろうから。

Sのこと、無かったことにしたらどうなるか?メールが来ない限りは無かったことにしてみようか。